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響きを聴く |
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ちんどん屋の「響き」から考える : 日本と英語圏の音研究/サウンド・スタディーズ |
阿部万里江執 |
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聞きえないものを聞く : 水面下の音がもたらす知覚と想像力 |
岡崎峻執 |
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ベトナムの一弦琴「ダンバウ」の音響 : 一つの音の限界から |
昼間賢執 |
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祭祀芸能における〈音と超越性〉 |
春日聡執 |
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「古代」の音 : エッセイ |
鈴木聖子 |
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聞こえてくる音 |
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鈴木鼓村『耳の趣味』を読む |
齋藤桂執 |
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浅草興行街における小芝居の音 |
土田牧子執 |
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戦前の騒音問題 : テクノロジーと生活の軋む音 |
細川周平執 |
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規制管理される音 : 東京と福島 |
リチャード・チェンホール, タマラ・コーン, キャロリン・S. スティーヴンズ執 |
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騒音と「法悦境」のあいだに : エッセイ |
栫大也 |
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戦前期昭和の音響メディア |
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方法としての音 : フィールド・スタジオ録音の「共創的近代」論序説 |
山内文登執 |
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感性史のなかの戦争 : 音響学者・田口泖三郎にとっての「音と戦争」 |
渡辺裕執 |
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大大阪のラジオ放送 : 文化と文明のはざまで |
長﨑励朗執 |
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フィールドレコーディング作品とその文脈 : エッセイ |
柳沢英輔 |
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音が作る共同体 |
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昭和前期の松沢病院にみる「慰楽」 : 治療と日常のあいだに響く音 |
光平有希執 |
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旅するオーディエンス : 温泉地の聴取環境考 |
葛西周執 |
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有線放送電話の声空間 : 秦荘有線放送の場合 |
細馬宏通執 |
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芸能化の文脈 |
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信号音から民俗音楽へ : 諏訪地方におけるラッパ文化の生成 |
奥中康人執 |
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太鼓音楽の伝承と創作 : 小口大八の活動を中心に |
中原ゆかり執 |
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芸能になる・スポーツになる : 中国龍舞の音をめぐる価値の変容について |
辻本香子執 |
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おわら風の盆の夜を聞く : エッセイ |
長尾洋子 |
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鼓膜の拡張 |
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スコット・ド・マルタンヴィルの業績を再検討する |
福田裕大執 |
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電話は耳の代わりになるか? : 身体の代替性をめぐる音響技術史 |
秋吉康晴執 |
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拡声器の誕生 : 電気音響技術時代における拡声の技術史と受容史 |
福永健一執 |
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みずからの「きこえ」 : イヤフォンによる「聴力」と「補聴器」 |
瀬野豪志執 |
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「口と耳のあいだで」 : エッセイ |
伊藤亜紗 |
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フィジカル・リスニング : エッセイ |
木下知威 |
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ステレオの時代 |
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見えるものと見えないもの : 初期ステレオ経験の「語り」をめぐって |
福田貴成 |
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市民による音づくり : 映画評論家、荻昌弘のオーディオ評論 |
金子智太郎執 |
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「洋楽」をつくる : 一九七〇年代後半国産ディスコの産業と文化 |
輪島裕介執 |
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MDが架橋するメディア技術 : エッセイ |
日高良祐 |
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物語世界論への挑戦 |
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映画にとって「物語世界の音」とはなにか : ヤン・シュヴァンクマイエル『アリス』を例に |
長門洋平執 |
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ゲームにとって音とはなにか : ダイエジーシス(物語世界)概念をめぐって |
吉田寛執 |
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サウンドの表現者 |
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日本における〈音のある芸術の歴史〉を目指して : 一九五〇-九〇年代の雑誌『美術手帖』を中心に |
中川克志執 |
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感覚のアート : フルクサスの実践から |
柿沼敏江執 |
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Off site、on site : 二〇〇〇年代初頭のオルタナティヴ・シーン |
横井一江執 |
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非アカデミックな日本のアヴァンギャルド・ミュージックの成り立ち : エッセイ |
石橋正二郎 |
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即興演奏とアジアの音楽家との交流 : エッセイ |
大友良英 |
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デジタル・ミュージッキング |
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イメージを移植する耳 : 初期パソコン受容に見るミュージシャンシップの形成 |
谷口文和執 |
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いつか音楽と呼ばれるもの 試論その2 |
城一裕執 |
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私たちはもっとうまくできます : ライヴ・コーディングの起源と意味を再考する |
久保田晃弘執 |
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真夜中の橋の上での出会い : エッセイ |
ポール・デマリニス |
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響きを聴く |
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ちんどん屋の「響き」から考える : 日本と英語圏の音研究/サウンド・スタディーズ |
阿部万里江執 |
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聞きえないものを聞く : 水面下の音がもたらす知覚と想像力 |
岡崎峻執 |